北極の歴史

The Arctic: a history
New Internationalist No.424
July/Aug. 2009 p14-15

氷に覆われた海、オーロラと白夜の世界。そこは神話の地である。長きにわたり人類を魅了してきた北極。この土地を支配しようとするものには富と災いがもたらされるが、先住民族はそんな流れからも取り残され、搾取されてきた。

先住の民

人類は3万年前から北極に住んでいたと考えられている。最後の氷河期の終わりごろにあたる1万年前、カリブー、そして長い毛皮を持ったマンモスとサイの群れを追うハンターたちが、北シベリアを駆け抜けた。彼らは、ベーリング海峡を渡って北米大陸に到達した初めての人間であった。数千年後には北極沿岸に定住する人間も現れ、クジラやセイウチ、アザラシを専門に狙うハンターとなった。北極地域の先住民は民族的に多様で、広範囲に散らばって生活するが、衣類や住居、半遊牧的な生活様式など多くの共通点があった。彼らは皆、同じ動物を狩り、同じような霊的信仰を持ち、助け合いながら生活する社会を作る傾向があった。そして驚くほどの適応力で、苛酷でもあり豊かでもある環境に常に順応しながら繁栄を築いた。

初期の入植者たち

古代ギリシャ人は、北の空を回る大熊座という星座にちなんで、この地域を「Arktos(クマ)」と名付けた。これがArctic(北極)の語源である。北欧のバイキングは9世紀に初めて北極圏の北を航海し、「赤毛のエイリーク」がグリーンランド南部に入植した。さらに12世紀には、ロシアが北シベリアへの探検と入植を始めた。17世紀の終わりには、北シベリアの広大な地域が全てロシア帝国の領土となった。1500年代以降、ヨーロッパの探検家は北へ北へと進み、進出先ではそこを領土だと主張した。彼らは領土である証しとして、その土地の住民を拉致して連れ帰ることも多かった。

通商路を求めて

ヨーロッパでは中世から、セイウチの牙、アザラシの皮、毛皮製品などが売買されていた。主君にホッキョクグマを献上することもよくあり、イングランド王ヘンリー三世はその贈り物をロンドン塔で飼育したと言われる。しかし、北極探検が本格化したのは16世紀に入ってからだ。その目的は、アジアとの貿易を容易にするために大西洋からの北極航路を探すことにあった。英国、オランダ、ノルウェー、ロシア、デンマークの冒険家たちは4世紀もの間、人を寄せ付けない氷の世界を西に東に航路を探し求めた。だが、これらの試みはすべて失敗に終わった。その探査では、動く氷にはさまれて船が大破して沈没したり、どことも分からない土地での「越冬」で乗組員が壊血病[訳注:ビタミンCの欠乏によって起こる病気]に倒れたり凍死したりして、多くの人々が死んだ。

しかし、これらの冒険によって、北極の大部分が踏査された。新しい貿易会社も設立されたが、このうち最もよく知られているのはハドソン湾会社と王立グリーンランド貿易会社[訳注:現在はロイヤルグリーンランド社]である。この両者は今でも営業を続けている。大規模な商業捕鯨(クジラの油や骨をとるため)やセイウチ漁(牙をとるため)が1600年代に始まり、幸運にも生き延びた者には巨万の富がもたらされた。1900年には、北極の海洋哺乳類の多くは個体数が激減し、ホッキョククジラはほとんど絶滅状態となった。

ロンドンの国立海事博物館所蔵の絵
北西グリーンランドのイヌイットと初めて接触した英国海軍(1818年)。


北アメリカの北極圏

英国海軍は1818年から1845年にかけて、組織を挙げて北西航路の発見に取り組んだ。だが、ジョン・フランクリン卿の不運な航海という事態がついに起こってしまった。船は乗組員もろとも行方不明となり、その後数年にわたって少なくとも15の救助隊が派遣されたが、発見することはできなかった。このフランクリン卿捜索、そして北西航路の探査は、米国が北極に進出するきっかけとなった。そしてその後にはアラスカ沖でとれる鯨油の需要が急増し、1867年に米国はロシアから720万ドルでアラスカを購入することになる。その際先住民族は、何の相談も説明も受けなかった。1880年カナダは、3万6,000を超える島からなる北極の群島を自国領として英国に要求した。

1878年、スウェーデン系フィンランド人の科学者アドルフ・エリク・ノルデンショルドが初めて北東航路の航行に成功した。北西航路は、1903年から1906年にかけて、ノルウェーの探検家ロアルト・アムンセンがついに横断に成功した。

ロンドンの国立海事博物館所蔵の絵
ジョン・フランクリンの1845年の北西航路探査は、悲惨な結末を迎えた。


北極点到達競争

1764年以降、数カ国が北極点を目指した。当初、北極海は氷に囲まれた開水域であると多くの人々が確信していたが、その大部分が氷で覆われていることは探査の初期の頃に確認されていた。19世紀も終わりに近づくにつれ、探検家が徒歩、犬ぞり、時には熱気球で氷原を横断し、競争は加速していった。1909年米国人のロバート・ピアリーは、手強いライバルであったフレデリック・クックが北極点に到達したと主張したすぐ後、彼も到達したと主張した。しかし、氷上からの北極点到達が最初に確認されたのは、米国人のラルフ・プレイステッドがスノーモービルで行った1968年の遠征である。人々を北極探検に駆り立てたのは、冒険心ばかりではなかった。19世紀以降、北極の地形、海、気候に関する科学的研究の重要性が高まったことも一因である。そしてそれは、第1回「国際極年」(1882〜83年)[訳注:各国が協力して極地にて地球観測を行う年で、第4回が2007〜08年に行われた]制定につながり、北極地域のいたるところに科学的な観測拠点が設置された。

英国ガーディアン紙掲載記事の地図
1595年の北極の地図。当時ヨーロッパ人は、北極には巨大な山があり、その周囲を海に囲まれていると信じていた。


Newfoundland and Labrador Heritage Website掲載記事の挿絵
北極探検の装備に身を包むロバート・ピアリー。

資源獲得競争

19世紀も終わりに近づくにつれ、北極地方の豊かな鉱物資源の存在がはっきりしてきた。1890年代にはアラスカとユーコンにおいてクロンダイク・ゴールドラッシュが起こり、何千人もの人々が北極のはずれへと向かい、一山当てようと途方もない苦難に耐えた。そのため米国とカナダの政府は、極北の地を初めて法令の対象とした。ロシアは、北極圏に膨大な石炭、ダイヤモンド、ニッケル、そして銅が眠っていることを発見した。スピッツベルゲン島の石炭採掘は1899年に開始され、1970年代までに45万トンが採掘された。北米最大のプルドーベイ油田が発見されたのは1968年になってからだが、それを差し引いても、20世紀中にアラスカ北部で発見された油田とガス田は最大の富をもたらした。石油とガスの大規模生産の開始は、シベリアでは1970年代だったが、カナダとノルウェーではより最近の話である。

極地での冷戦

第二次世界大戦が勃発し、連合国の軍事作戦に対してドイツ軍が妨害工作を試みる中、北極は武器と物資輸送のため、そして測候所や散発する戦闘の場としても戦略的要所となった。基地、滑走路、そして無線通信がこの地域のコミュニケーション方法を変容させ、北極地域の社会が以前のように孤立することはなくなった。1950年代に冷戦が始まると、北極は超大国に挟まれる極めて重要な舞台となった。北極圏の至るところにレーダー施設が建設され、多くの場所に軍関係者の恒久的な駐留地が設けられた。航空測量により、最新の正確な地図が作られ、領有権をめぐる争いはますます激しくなっていった。

先住民族への影響

19世紀以降、貿易、狩猟、資源採掘、そして急速に増加する移住者によって、先住民族の社会と伝統的生活様式は様変わりした。アラスカ北部では、捕鯨業や石油掘削などの商業活動が先住民族社会を市場経済へと引きずり込み、それによってもたらされた飲酒と病気が特に打撃となったことは明らかである。

1950年代、カナダのイヌイットの多くは、移動する生活スタイルを放棄するよう強いられて定住したが、定住先では政府の生活保護に依存するようになった。この定住策には、北極の高緯度地方の領有権主張を強化するというカナダのもくろみも含まれていた。グリーンランドでは、先住民は「文明化する義務」を負わされ、ロシアでは「ロシア化政策」が旧ソ連によって強引に推し進められた。

近年では先住民族の勢いが復活し、人口は増加し、伝統的な言語や文化を取り戻しつつある。その理由のひとつには、故郷の工業開発に対する抵抗に刺激を受けたこともある。北極地方の人々は、1960年代から土地の権利と政治的自律のために団結し始めた。だがその成果はさまざまである。グリーンランドは独立に近い自治を手にしたが、ロシアでは基本的人権を求める闘いが今も続いている。


【翻訳協力】 水野 裕紀子 / 森 貴志



  北極の未来・環境・先住民 The Arctic




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