日本にとっての核軍縮
─「反・反核国家」の背景
日本発のリポート
NI日本版 No.100
2008年6月号 p38-52

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日本政府は、核廃絶は日本の国是等の言葉を繰り返し表明してきた。しかし日本政府が真摯に核軍縮に取り組んだことはない。それどころか、具体的な核軍縮に向けた努力に対しては否定的な姿勢を示すことも多く、特に核兵器の違法性を問うような動きには敏感で素早く反発する。ところが、このような発言と行動の間の矛盾は十分には認識されてこなかった。そこでここでは、日本の政治状況を振り返り、歴史的な流れをふまえながら問題を整理する。

by 河辺一郎(愛知大学)


1.日本の核政策の出発点

1951年9月に締結されたサンフランシスコ平和条約に基づき、日本は翌52年4月に独立を回復した。これは、米ソ対立の激化、特に朝鮮戦争の勃発を受けて急遽なされた措置だった。同時に、日米安全保障条約が締結され、米軍は日本駐留を続けることとなる。その一方でソ連、中国、インドなどは、平和条約に署名しなかった。これにより米国は、日本軍国主義を支えた旧勢力復活も構わずに、日本を自陣営に引き入れたのである。47年に発効した日本国憲法は、戦争放棄や軍隊の不保持をうたっており、独立の回復によってこの考えを軸に外交を展開できるようになったはずだったが、安保条約が制約をはめた。この結果、日本外交はその出発点から憲法ではなく米国の軍事政策の上に政策を積み上げることになったのである。

1954年、米国がビキニ環礁で水爆実験を行い、日本の漁船がこれに巻き込まれた。これに対して世論は反米の動きを強めた。ここで、読売新聞や日本テレビを抱え、A級戦犯に指定された経験を持つ正力松太郎が、反米活動を弱体化させる意味からも原子力のイメージ向上を狙って原発の導入を推進し始めた。もちろんこの背後では日米双方の政府が動いていたが、問題の性格上、米国政府が非公式に活動したのに対して、正力の行動は露骨だった。彼は紙面やテレビを通じて原子力の宣伝を行うだけでなく、55年2月に自ら衆議院議員となり、国務大臣として56年1月に発足した原子力委員会の初代委員長に就任した。日本政府にとって、原子力発電の推進と米国の核政策への支持は、当初より結びついていたのである。

1957年、A級戦犯だった岸信介を首相とする内閣が誕生する。岸は、軍事力を持たない日本が安保上の役割を担えるよう、日米安保条約の内容の改訂に力を注ぎ、アイゼンハワー大統領と合意した。これに対して世論は、米国の戦争に巻き込まれると強く反対し、結局岸は新条約批准後の60年に辞任した。彼は、自衛権の範囲内であれば核保有も可能で、防衛用小型核兵器は合憲などの答弁も繰り返していた。

岸の後を受けたのは重商主義者の池田勇人だったが、彼は外交においても岸路線からの転換を試みた。日本では首相が直接大使を指名することはほとんどないが、池田は独自外交の展開を唱え、岡崎勝男・元外務大臣を国連大使に任命したのである。そんな中、1961年11月の国連総会で核兵器使用禁止宣言決議が採択され、国連機関として、核兵器の使用が国連憲章に反することを初めて宣言した。この時岡崎は、西側諸国として唯一賛成票を投じた。

これに対して外務省は素早く反応した。翌1962年には次席国連大使を設置し、後に軍縮問題の専門家として活躍する松井明を任命し、岡崎の監視役としたのである。その後、日本が核兵器使用禁止問題を支持することはなくなり、61年の決議は、これまでのところ日本政府が投じた唯一の賛成票となった。

2.非核三原則から反・反核政策へ

1967年佐藤栄作首相は、日本は核兵器を持たず、作らず、日本の領域内に持ち込ませないとする、非核三原則を正式に表明した。そこには、「核不拡散条約(NPT)」(中仏ソ英米の5カ国にのみ核保有を認めるもの)が翌68年に署名のために公開されるという背景があった。NPTは70年に発効したが、この時期いわゆる核抑止論が確立しつつあった。米ソは対立しながらも、全面的な核軍縮を求める中小国に対しては、核保有国として同じ立場に立つことを認識しており、そのため、自らの核保有と核開発を正当化するための理屈の構築と法的な制度化を進めたのである。日本も70年にNPTに署名したが、日本の核武装の可能性を捨てることなどを保守派が問題視し、批准は76年まで遅れた。それは、国連総会が初めて軍縮特別総会の開催を決定した年でもあった。

1961年の核兵器使用禁止宣言は、アフリカ諸国などが主導したものだった。その後第三世界諸国は、国連を通じて貿易、アパルトヘイト、パレスチナ問題などを推進し、74年に総会が新国際経済秩序を宣言することで、一連の動きの頂点を築いていた。これに対して米ソなどは、NPTなどにより核保有の制度化を図ると同時に、軍縮協議を国連から切り離そうとしていた。核兵器使用禁止宣言採択の翌62年に18カ国軍縮委員会(後のジュネーヴ軍縮会議)が国連外に設置されたことや、69年に米ソ二国間交渉である核軍備制限交渉(SALT)が始まったことは、米ソの思惑を象徴していた。これに対し、全ての国連加盟国が参加する総会が初めて軍縮問題に取り組むことは、一部の国しか関与できない国連外の協議をけん制する意味があった。軍縮特別総会最終文書が、「軍縮の主要な目標は……核戦争の危険を除去すること」とし、「国連は、憲章にしたがって軍縮の分野において中心的な役割と第一義的な責任を有する」と宣言したことは、米ソが軍拡と軍縮協議を支配していることへの批判だった。

これに対して日本は、軍縮特別総会開催後の通常総会において軍縮関係決議に初めて反対した。その歴史的な反対票が投じられたのは、核兵器を持たない国への核不配備決議だった。日本政府が許容できなかったのは核問題だったのである。このような投票傾向は、1981年にレーガン政権が誕生し、さらに1983年に中曽根政権が誕生することで加速した。日本は、「核兵器の不使用・核戦争の防止決議」「核の惨状防止宣言」「中性子兵器禁止決議」「核軍備の凍結決議」「核戦争非難決議」「非核兵器国の安全強化条約決議」と、特に核軍縮に関係する問題に次々と反対するようになる。それまでの日本の軍縮問題に対する賛成率は、他の問題への賛成率を上回っていた。しかし80年代にはこれが逆転し、さらには西側先進国の平均をも下回るようになった。5カ国だけに核保有を認めるNPTの批准は、その傘の下で守られていると自ら考える日本が、反核に反対する姿勢を明らかにする前提でもあった。現在まで日本政府が核軍縮について語る際には決まって核不拡散体制の堅持などの言葉を伴うが、それは核体制を守ることの表明にほかならなかった。

3.冷戦の終えん −核の問い直しと核兵器擁護

1989年12月、米ソは冷戦の終えんを宣言したが、これは核兵器を正当化してきた根拠がなくなることを意味した。これを受けて反核運動と核保有の根拠を再構築する動きがともに加速した。93年と94年に世界保健機関(WHO)と国連総会は、国際司法裁判所(ICJ)が核の違法性に関する勧告的意を見出すよう求める決議を行った。これは反核運動が実を結んだ一例だが、核兵器支持側は、発効から25年後に見直しが決められていたNPTの延長に向けた動きを活発化させた。

一方日本では、1993年に政権が交代し、55年の結成以来一貫して与党であった自民党が野に下った。これ以降98年まで、何らかの形で社会党などの勢力が政権に加わる時期が続き、核政策の転換が可能となった。94年には日本が初めて単独で核軍縮に関する決議案を国連総会に提出したが、これも当時の河野洋平外相が「核廃絶に向けての先進国・途上国を通じての合意の基盤を作り出したい」という「新しい発想」があったためだと言われる。河野の指示により軍縮白書も発刊された。

ただし、従来の核政策を維持しようとする立場からは、決議に具体性を持たせないことでこのような「新しい発想」を無力化することは容易だった。その一方で彼らが警戒したのは、核兵器の法的根拠が揺らぐことだった。外務省は、日本国憲法と安保条約間の食い違いについて、また日本の核政策についても、法的な説明をうまく操ることで野党の追及をかわしてきた。NPTの延長は米国にとってのみならず、外務省自身にとって重要だったのである。だが一方では、世界的な注目を集めていたICJの核の違法性の審理については法的判断を避けた。自らの立場を曖昧にしながら、核兵器の法的根拠を確立しようするこの姿勢は、国内に対する説明と国際的な行動の間の矛盾をごまかしてきた日本政府のあり方を象徴していた。

ただし、法的判断を避けられない日本人もいた。日本政府の推薦によりICJ判事を3期27年の長きにわたって務めた小田滋である。彼は、延長されたばかりのNPTを根拠にして核兵器を合法としただけでなく、WHOと国連総会の要請は、一部のNGOが主導した結果にすぎないなどの不可思議な理屈までをも掲げ、ICJは勧告的意見を出すべきではないと主張した。これが国際的に通用しないことは明らかだったが、日本人の学者が国際法学の重鎮とされる小田を強く批判することはなかった。

4.軍国主義への接近とイラク戦争

9.11は米国に60年前の悲劇を思い起こさせた。ブッシュ大統領は、文明とテロの戦いと称してアフガニスタン空爆に突き進み、2002年1月の年頭教書では、イラクなどを悪の枢軸と呼んで対決姿勢を強めた。これは、日本の軍国主義が文明の基盤を脅かしているとして日本への経済制裁を求めた当時のルーズヴェルト米大統領の演説や、ナチスや日本軍国主義などの枢軸国に対する戦いを表明した1942年1月の連合国宣言を倣ったものだった。

この歴史を振り返るまでもなく、米国の保守派と日本の保守派では理念が大きく異なる。本来、米国の保守派は日本軍国主義を許容し得ない。米国の保守主義は、1941年までは孤立主義、平和主義とほぼ同義語であった。軍需産業が米国を第1次世界大戦に参戦させたとするいわゆる死の商人論を主導したのも保守派だった。伝統的保守派を代表するアイゼンハワー米大統領が、軍産複合体が政治に与える影響について辞任演説で警鐘を鳴らしたことも死の商人論が形を変えて現れたものと言える。

しかし、そのような保守派の主張や考え方を根底から覆したのが日本軍国主義の侵略であった。しかも実際の戦闘を通じて、米国は日本軍国主義の異常さを痛感した。日本兵は他国の市民や捕虜の生命を尊重しないばかりか自軍の犠牲をもいとわず、非合理的な突撃を繰り返し、自爆攻撃を行い、地上戦が戦われた沖縄では進んで自国市民を巻き添えにした。こうした経験が、米軍のみならず日本の市民の犠牲を減らすためにも原爆投下はやむなしとする米国の認識を強めることになった。

一方、日本の保守派、特に右派は岸や正力のように日本軍国主義と密接なつながりを持つ。彼らは、日本軍国主義の侵略行為をアジア解放戦争と称した上、日本がハワイの真珠湾を爆撃した責任は米国にあり、米国が日本に原爆を投下したのは人種差別意識があったためなどの発言を繰り返している。もちろんそれは米国保守派もまたリベラルも許容できるものではない。

そこで、強い反共姿勢を持つ岸や中曽根は、反共を基盤にして米国との関係を築いた。彼らは、反共とそれに基づく軍事的な議論以外に他国との間で語れる言葉を持たなかったがために、米国に軍事的に追従することとなった。ところが、日米の保守派の理念の違いを覆い隠してきた冷戦は幕を閉じたのである。

ブッシュと同時に政権に就いたのは岸の流れをくむ小泉純一郎で、彼はA級戦犯をまつる靖国神社に参拝することを公約として首相に就いたが、これには米国保守派の批判が向けられた。ただし、9.11以降は反テロを声高に叫ぶことによりブッシュと共通の言葉を作ることが可能になった。それはつまり、小泉がブッシュの行う戦争をひたすらに支持することを意味した。

とはいえ、国際的な批判が高まっていたイラク戦争への支持については十分に国民を説得することができない。このような中で大きな説得力を持ったのは、北朝鮮危機において米国に助けてもらうためには米国に逆らうことはできないとの理屈だった。もちろん北朝鮮問題とイラク問題は関係がなく、米国社会などから見れば卑怯者の言い草ともとれる主張だったが、日本国民はこれに納得したのである。さらには、中東の石油を確保するためには自衛隊をイラクに派遣することも必要などの答弁も繰り返された。米国で最も非難される石油のための戦争という言葉が、日本では逆に支持を得たことになった。保守かリベラルかを問わず、日本社会の認識は欧米とは大きく異なっていた。

一方、2002年の小泉のピョンヤン訪問において拉致問題が発覚すると、日本では保守派の影響力が大きくなった。それまでの保守派は、北朝鮮の日本軍国主義非難に対して十分な反論ができなかった。しかし具体的な日本人の被害が判明したことにより、保守派は過去のくびきから脱したのである。

その北朝鮮が2006年に核実験に成功するが、これは日本の核武装を求める勢力を勢いづけた。ここで改めて米国社会の関心を集めたのは首相の靖国参拝や従軍慰安婦問題だった。ところが日本の保守派の一部は、自らの主張が世界では通用しないことを理解せずに米国の説得を試みてしまい、日本政府を擁護しようとする米国の新保守派をかえって窮地に追い込むことになった。

しばしば、日本外交は米国追従を脱すべきだと言われる。しかし日本は自ら主体的に反・反核姿勢をとってきたのであり、決して米国に強いられた結果ではない。そして、特に北朝鮮問題の顕在化とイラク戦争以降は、日本は対米追従どころか、安保条約の枠すらをも飛び越え、さらにはブッシュ政権をより強硬な姿勢に誘導しようと試み続けているのである。

そのような姿勢が維持されてきた理由は、ひとえに日本人が自らの政府の外交政策を検証してこなかったことにある。つまり日本では、外交政策に関する限り民主制が機能してこなかったのである。このため今でも、戦争を放棄した日本が国連安保理常任理事国となることで世界のあり方が変化するなどと主張する「リベラル」が絶えない。この点で、保守派のみならずリベラルも深刻な問題を抱えている。このような状況の中で日本外交がより自主性を発揮することは、核軍縮においても非軍事的な世界を作る上でも、決して好ましいことではない。今や、せめて米国の政策の枠内において日本が「追従」していることの方がよほど好ましい。そう言わざるを得ない点に、日本人が直面する問題の深刻さがある。◆


河辺一郎(かわべいちろう)
1960年生まれ。愛知大学教授。専門は国連問題及び現代日本外交。主著に『国連と日本』(岩波新書、1994)、 『日本外交と外務省―問われなかった“聖域”』(高文研、2002)『国連政策』(日本経済評論社、2004)日本の外交は国民に何を隠しているのか』(集英社新書、2006) など。


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